ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 東予地方局 > 鹿森ダム管理事務所 > 鹿森ダム周辺情報2

本文

鹿森ダム周辺情報2

ページID:0001122 更新日:2019年3月19日 印刷ページ表示

 鹿森ダム周辺には新居浜市の主要な観光施設などが多数あります。

別子銅山記念館

 鹿森ダムに来る途中、山根公園に隣接する大山祇神社の横に「別子銅山記念館」があります。

 別子銅山記念館は、別子銅山の意義を永く後世に伝えるため、住友グループにより昭和50年に完成しました。

 その建物は独特の半地下式構造となっており、道路からは見えず外観も周囲の景観に溶け込むよう配慮されています。

 内部には、別子銅山開坑以来の史料などが展示されるとともに、屋根などにサツキが植え込まれ、春には一面にその花が咲き誇ります。

 非常に貴重な史料を鑑賞でき、入館料も無料ですので、鹿森ダムを訪問される際には、是非お立ち寄りされることをお勧めいたします。

 (写真提供:別子銅山記念館)

春の別子銅山記念館の外観

春の別子銅山記念館の外観の画像

別子銅山記念館の展示状況

別子銅山記念館の展示状況の画像

別子鉱山鉄道

かつて、鹿森ダムの近くには別子銅山の鉱石などを運搬する別子鉱山鉄道が走っていました。

標高1100mの角石原から標高835mの石ケ山丈を結ぶ「上部鉄道」と、端出場(現在のマイントピア別子)から海に近い惣開を結ぶ「下部鉄道」の2路線です。

明治26年(1893)に完成しました。

マイントピア別子内に位置する打除鉄橋は、足谷川を横断するため明治26年(1893)に架設されました。

現在は、登録有形文化財として保存されるとともに、観光トロッコ列車が通っています。

この鉄橋にはドイツ製橋桁が用いられています。

これは、蒸気機関車ともに、当時、九州鉄道会社顧問技師を務めていたヘルマン・ルムシェッテルが指導したためです。

また、この打除鉄橋の架設は、明治17年(1884)に工部大学校を卒業した小川東吾が担当したと言われています。

小川東吾も日本土木会社に所属していたことがありました。

日本土木会社には多くの優秀な技術者が参加したことから、その出身技術者達は明治期建設業界の裾野を広げていきました。

マイントピア別子内に位置する打除鉄橋(橋長約40m、60°の斜橋)

マイントピア別子内に位置する打除鉄橋(橋長約40m、60°の斜橋)の画像

別子銅山記念館前に展示している「上部鉄道」を走った蒸気機関車(ドイツ製)

別子銅山記念館前に展示している「上部鉄道」を走った蒸気機関車(ドイツ製)1別子銅山記念館前に展示している「上部鉄道」を走った蒸気機関車(ドイツ製)2

下部鉄道の建設には、古市公威や沖野忠雄とともにフランスに留学した山田寅吉が当たりました。

山田寅吉は日本土木会社の初代技師長を務めた人物です。

日本土木会社は、明治20年(1887)3月に渋沢栄一を創立委員長とし、それまで東京方面の土木建築事業を展開していた、

大倉喜八郎と同じく大阪方面での藤田伝三郎が、一緒に作った我が国初の総合建設会社であり、現在の大成建設の前身です。

山田寅吉は、日本土木会社を辞めた後、明治23年(1890)6月から明治29年(1896)12月までの間、別子鉱山鉄道のほか、

伊予鉄道の三津浜と高浜間、南予鉄道の松山と郡中間の鉄道工事も請け負っています。

鹿森ダム 板ノ本サイレン警報局の近くの「下部鉄道」言嶽トンネルと高い石積で作られた軌道跡

鹿森ダム 板ノ本サイレン警報局の近くの「下部鉄道」言嶽トンネルと高い石積で作られた軌道跡の画像

山田寅吉や小川東吾が所属した日本土木会社に就職した愛媛県西条市出身者に野口粂馬がいます。

野口粂馬は、明治21年(1888)に帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、日本土木会社に入社しました。

明治25年(1892)に日本土木会社は解散し、大倉喜八郎に関する事業は大倉土木組に移管されました。

野口粂馬は大倉喜八郎からの信頼が厚く、明治26年(1893)12月に大倉喜八郎の四女と結婚し大倉家へ入り、

翌明治27年(1894)には大倉土木組の土木建築部門最高責任者である「店主」という役割で経営に当たることとなりました。

晩年、大倉粂馬は西条市にある伊曽乃神社の再興にも尽くし、伊曽乃神社入り口には大倉粂馬の大きな顕彰碑が立っています。

<参考>

  • 別子銅山記念館編、『別子鉱山鉄道略史』、別子銅山記念館、新居浜市、1978
  • 小西純一、西野保行、淵上龍雄、「わが国におけるドイツ製鉄道橋梁-歴史と現状-」、『土木史研究12』、土木学会、1992
  • 山田寅吉博士事績調査会編、『魁星』、社団法人東北建設協会、2000
  • 鈴木淳編、『工部省とその時代』、山川出版社、2002
  • 別子銅山記念館編、『平成30年企画展 写真と小史でみる別子鉱山鉄道』、別子銅山記念館、2017

瑞応寺

瑞応寺は、1448年(文安5年)生子山城主松木景村が鎌倉から月担禅師を招き、釈迦如来を本尊として建立した古寺です。

その後、1585年(天正13年)豊臣秀吉が小早川隆景を派遣した四国進攻により、松木氏もこの地を追われ寺も廃墟となりました。

しかし、1660年(万治3年)当地の庄屋河端、神野家等が分外禅師を招き、曹洞宗に改宗し、再興しました。

本堂

本堂の画像

境内は山林も含め10500坪に及び、樹齢千年とも推定される境内の老銀杏樹は1956年(昭和31年)に県の天然記念物として指定を受けています。

樹齢800年の大銀杏(愛媛県指定天然記念物)

樹齢800年の大銀杏(愛媛県指定天然記念物)の画像

天正の陣で敗れた松木三河守安村を慰霊するためにその子孫が建立した石碑が、西条市野々市の千人塚史跡公園に残っています。

関連リンク


AIが質問にお答えします<外部リンク>